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    6月12日 第2191例会 |

    6月12日 第2191例会

    板東俘虜収容所跡ベートーヴェン「第九」日本初演の地

    本日の卓話は豊中南ロータリークラブ45周年記念事業、豊中夢の第九コンサートのダイジェストDVDの鑑賞会です。

    当日のパンフレットで日本で初めて第九コンサートが行われたのはコンサートホールではなく、徳島県の俘虜収容所であることをお伝えしました。ただしこの情報はインターネットから得たもので、私自身が非常に気になっていましたので、真実を確かめるべく6月7日に徳島県鳴門市、四国八十八か所の1番札所霊山寺近くにある坂東俘虜収容所跡及び収容所の資料館であるドイツ館に行ってまいりました。

    本日の会長の時間は第九交響曲日本初演の経緯についてお話しさせていただきます。

    話は第一次世界大戦に遡ります。日本は第一次世界大戦で中国にある青島でドイツ軍と戦い、短期間ではあったが激戦を制した。負けたドイツ軍は武装解除され日本に設けられた12か所の俘虜収容所に収容され徳島がその一つだった。囚われの身、俘虜と聞けば、自由の束縛や厳しい労働環境をイメージしがちだが、  1907年に日本が調印した「第二ハーグ条約」に基づき「俘虜は人道的に扱う」と国際条約で約束がなされていた。食事、衣服などはその国の軍隊と同等であることや、俘虜に対する俸給の取り決めまでが明記されていた。とは言うものの、第一次世界大戦最中の食糧難や鉄格子で囲まれた収容所からの脱走事件もあるため、俘虜達の不自由の中の自由は収容所所長の人格に委ねられていた。

    1917年から終戦までの4年間、44歳の若さで坂東俘虜収容所の所長を務めた大日本帝国陸軍中佐である松江豊寿(まつえ とよひさ)の人格は素晴らしかった。松江はドイツ人の俘虜達に人道に基づいた待遇で彼らに接し、可能な限り自由な様々な

    活動を許した。1920年4月、第一次大戦終了に伴い 板東俘虜収容所は閉鎖されたが俘虜たちは解放された後もここで受けた温かい扱いを忘れず「世界のどこに松江のような素晴しい俘虜収容所長がいただろうか」と語るほどだった。松江の行動は武士道に起源すると言われている。収容所で俘虜が発行していた新聞に武士道について紹介されている。

    「第一原理は自己の命を軽んじ、自己の行いに責任を持ち、自制心を鍛錬し、恥を知ることである。決断に際しては熟考し、臆病でないこと。主人と祖国のためには進んで命を投げ出すこと。弱者と貧者に対して好意を持ち、親切であること。」

    また、「普通の考えではどうにもならない事を別の方法で考える」といったポジティブな所長方針を強く唱えていた。例えば予算難の折、俘虜から食事の改善要求があれば、木を伐採し薪代を節約するとともに自給自足を実現したり、外出が困難な俘虜が「海で泳ぎたい」と要望すれば、衛生上足を洗うとの軍に対する申請で、海水浴に連れ出したり、地元中学校に音楽の先生として俘虜の派遣も行った。こんな松江所長の愛情ある管理体制と、ドイツ人の誇り高き文化的な国民性、積極性がマッチして所内で様々な活動が展開された。

    文化活動として週に2回講演会が開かれた。語学、地学、生物学、ドイツ文学など講演は数百回にも及んだ。ボーナー二等海兵は「ドイツの歴史と芸術」について30回以上の講演を担当し、第九演奏会に先立って、その成り立ちと意義についての講演も行っている。後に氏は大阪外国語大学で教鞭をとった。所内新聞「ディ・バラッケ」の発行は印刷、デザイン、構成の技術を持つ兵士が担当し、初年度で35万枚、2年目で55万枚、計算すると毎日ほぼ1500枚が手刷りで印刷されたことになる。

    スポーツ活動ではスポーツ委員会が計画を練り、テニス、サッカー、ホッケー、体操、レスリング、ボクシングの練習場、ビリヤードやボウリング場までが作られた。

    食文化としては製パン工場、製菓工場が設立され、市内在住の藤田只之助氏は所内でガーベル一等海兵より技術を学んだ。後にパンとケーキの店「独逸軒」(どくいつけん)を開き沢山の弟子を育てている。酪農技術を生かしたチーズ、バターの

    製造、ソーセージやハム、ベーコンの加工所も所内に設立し、地元日本人にもノウハウを提供した。

    20世紀初めの20年間、物理、化学、医学の部門でいくつものノーベル賞を受賞したことからも判るとおり当時ドイツの化学、技術は素晴らしい発展を遂げていた。日本政府もそれらを積極的に学ぶよう推奨していた。地域の人達と俘虜との交流や技術指導も盛んに行われ養鶏・養豚・野菜栽培から建築・設計まで広い分野で交流が行われたと言う。

    ボランティア活動では周辺地域に10か所の橋を建設し今でもドイツ橋の名称で残っていて今では国の有形文化財に登録されている。

    俘虜の職業は様々であるが文化的な趣味も多彩であった。特に芸術関係にはたけていて入所まもなくオーケストラと合唱団が編成されていた。楽器集めは楽ではなかったが、個人所有の楽器は没収を免れた。戦場に楽器を持参しているドイツ人の文化意識の高さも驚きだ。リーダーで指揮を務めたハイゼン氏はもともとドイツ軍の軍楽隊長であった。

    オーケストラのメンバーは立ち上げ時45名で2年半の間に45回のコンサートを開催している。

    1918年6月1日、日本初のベートーヴェン第九を演奏したのはこのメンバーで、縦35㍍、横 7.4m㍍の講堂で開催された。男性ばかりの合唱団でアルトとソプラノの女性パートは男性用に書き直された。

    鳴門市ではこれを記念して毎年6月の1週目に第九コンサートを開催し全国から沢山の愛好家が参加しています。1000人のドイツ人俘虜 の活動はどこかロータリー活動に似た活動のように思えます。

    それぞれの職務能力を生かして地域と社会に貢献する。そこには奉仕の精神と人々の交流があり感動がある。

    皆様も是非機会を作って第九発祥の地、鳴門を訪問してみてください。

     

     

     

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