7月12日 第2377例会
この度の西日本豪雨災害でお亡くなりになった皆さんお悔やみ申し上げます。被災された皆さんの一日も早い復旧を祈念いたします。
“三つ子の魂100まで”と言われます。幼少時の経験が人生の生き方に大きく影響していることが、この年になって良く分かりました。
私は、昭和17年、広島県呉市吉浦町で4人兄弟の長男とし生まれた。半農半工、戦時中は空襲警報が鳴るたびに家の横の防空壕に避難した。3歳の夏に終戦を迎え戦後の物の無い生活が始まる。小学校の給食はアメリカ進駐軍から支給のスキムミルクと塩パン1個。リヤカーで町に1軒しかないパン屋に給食パンを引き取りに行った。学校から帰るとカバンを投げて、畑に行き母の畑仕事を手伝う。サツマイモの収穫時期は友達が大勢集まり焼き芋を食べた。柿のなる時期は、数人で柿泥棒をしたが、持ち主の親父さんも見て見ぬふりをしてくれた。夕食時、停電も多くロウソクの下で食事したが、頭数が多いときは隣の子供が紛れて食べていた。
食糧難の時代、皆で助け合って生活し、今問題になっている、“いじめ”は全くなかった。助け合いの心に満ちていた。
食糧は家族人数分の配給で通帳を持って配給所に並んだ。不足する食糧は、ヤミ米として農家に買い出しに行った。汽車で買い出しに行くと駅には警察官がいて持ち物チェックし没収されるため、駅近くの鉄橋から川に投げ込み後で回収に行った。また母の里にリヤカーを引いて夜を徹してもらいに行った。家にあったミカンを収穫して八百屋に持ち込み、代金は鉛筆とノートに化けた。進駐軍兵士に「ギブミーチューインガム、ギブミーチョコレート」と物乞い、私の最初の実用英語。石油燃料のバスが初めて走ったとき、後を追いかけて排ガスを深呼吸した。
掲載日:2018年12月2日 | 目次:会長の時間(過去)に戻る