• TOP
  • クラブ概要
  • 活動報告
  • 例会
  • 目次

    7月19日 第2378例会 |

    7月19日 第2378例会

    中学校は呉の海軍兵舎あとの木造で、教室の中に柱が2,3本あり前の黒板が見づらかった。学校は瀬戸内海に面した場所で、町から一山越した山間地帯であった。気候の良い時期は、山越えで通学したが、そのまま山学校で楽しんだ。中学校からは給食はなく、弁当を持参しなければならず、当時は十分な食料もなく麦飯に梅干し、おかずは昨晩の残り物少々がよい方であった。一クラスは60人前後であったが、昼食時になると必ず5,6名がいなくなるのに気づき、担当の先生に聞いたところ、彼らは、お父さんが戦争で亡くなった人が多く、弁当を持ってこれないので、先生がコッペパンを買い与えいつも校庭のバクネット裏で食べていると知り、クラス皆に呼びかけてみんなの弁当を出して分けて食べるようにした。麦飯はあるが、おかずが不足するので、数人でグループを編成し、食事前の1時間を魚釣りの時間にし、魚(雑魚)を釣って弁当のおかずにした。

    学校の場所は瀬戸内海の浜辺に位置していて絶好の釣り場であった。授業をさぼっているが先生から一切叱られなかったし、用務員が鍋に油を仕掛けて待ってくれていて、釣りたての魚をから揚げにして,皆で美味しく食べた思い出がある。

    先生も2パターンあり、新制大学出の男女席を同じくせよタイプ、軍隊上がりの男女席を交えづ タイプ、先生ごとに席を移動し大いに困惑した。

    喧嘩は良くしたが、イジメはなかった。

    野球がはやり始めていたが、当時はボールもバットもグローブもなく、ボールは大きな松の実(松ぼっくり)、バットは板の切れ端、で野球を楽しんだ。物が無いから出来ないのではなく、工夫をする、知恵を出すことを自然に教わった気がする。広島は原爆投下で焼け野原となり、復興のシンボルとして、市民でプロ野球を作る運動がスタートし、資金集めに各駅に酒の空樽がおかれ、当時の小遣い銭5円玉を寄付した記憶がある。したがって広島カープは我々市民の寄付で出来た市民球団である。生涯私はカープファンである。

     

     

     

    PAGE