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    1月30日 第2173例会 |

    1月30日 第2173例会

    ベートーベン交響曲第九番

    1月18日、豊中市でベートーベン第九の合唱に取り組む東豊台小学校エリアの皆様に、豊中南RC45周年記念事業「「豊中夢の第九コンサート」の支援、協力依頼に行ってまいりました。極寒の真冬の体育館にもかかわらず100名近い市民合奏団の方々が熱心に練習をされていました。コンサートの当日には約30名の選抜されたアーティストにご協力をいただけます。

    本日は交響曲第九番についてお話しさせていただきます。

    交響曲第九番は、ベートーベン晩年の1824年に完成したベートーベン最後の交響曲です。交響曲第九番の最大の特徴は、合唱を取り入れていることです。そもそも声楽と交響曲は交わらないものと長年考えられてきましたが、ベートーベンによって一般的な形に仕上げられました。交響曲第九番は日本では「第九」と呼ばれ、年末の風物詩としても親しまれています。「第九」といえば、第4章のクライマックス部分「歓喜の歌」があまりにも有名ですが、歌詞の全てがベートーベンの作詞ではありません。元々はドイツを代表する作家、フリードリヒ・フォン・シラーによって書かれた「歓喜に寄す」という詩をベートーベンが編集したものを使用しています。ベートーベンは冒頭の「おお友よ、このような音ではなく心地よい歓喜に満ちた歌を歌おう」の部分を書き足しただけなのです。第九を第一楽章から通しで演奏していくと、全体で大体75分前後かかりますが75分の3分の2を過ぎた頃に合唱パートの出番が回ってくる構成です。曲が完成した当初、合唱を取り入れた第四楽章が世間で理解されず、第一楽章から第三楽章までのみが演奏されていたケースも多々あったようです。最終的に第四楽章「歓喜の歌」は、ワーグナーによる新解釈が加えられたことによって再評価の機運が高まり、現代に残されているのです。日本において、第九が初演奏されたのは第一世界大戦真っ只中の1918年のことです。当時、日本軍は、ドイツが占領していた中国の青島を攻略し5,000人近くのドイツ人兵士を捕虜としました。そのうちの1,000名が現在の徳島県鳴門市に作られた「坂東俘虜収容所」に送られ、終戦までをすごしました。この収容所の所長を務めた松江豊寿氏は捕虜に対し人道に則った扱いを行い、現地の住民とドイツ人の間の交流を促進させたのです。後にスイスに移されたドイツ人捕虜たちは「松江ほど素晴らしい捕虜収容所の所長はいない」と評しています。この時、ドイツ人捕虜によって結成されたオーケストラによって1918年6月1日に、日本で初めての第九演奏が行われたのです。彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。彼らは自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露した。また、建築の知識を生かして捕虜らが建てたドイツ橋は、今でも現地に保存されている。文化活動も盛んで、同収容所内のオーケストラは高い評価を受けた。

    第九は、戦後の世界においては「自由と平和の象徴」として世界各地で演奏されてきました。第二次世界大戦後再開された、ワーグナーが興したバイロイト音楽祭で最初に演奏されたり、1989年のベルリンの壁崩壊に際して大合唱されたり、ドイツの戦後の復興、発展において、第九は欠かせない楽曲として演奏されていきます。ドイツのみならず現在、EU(欧州連合)の歌として「歓喜の歌」を採用する動きもあります。

    ベートーベンが第九に込めた意図は、シラーの「歓喜に奇す」に込められた「友人や愛する人のいる人生の素晴らしさ」なのです。だからこそ、200年近くも人々に受け継がれる不滅の音楽となったのではないでしょうか。

    我々も3月からレッスンがスタートしますが、頑張って練習し、夢の第九コンサートを成功に導きましょう。

     

     

     

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