目次
黄燐工場視察
・中国
1981から毎年交易会(春、秋)参加
1988 南京化工分析技術者3名教育。
1992から雲南、曲靖、宣威、羊場、馬龍、昆陽
1998 雲南省、南燐集団公司親密関係。
・アメリカ
1986 モンサント
(アイダホ ソーダスプリング)
・イタリア
1989 モンテエジソン(クロトーネ)
・フランス
1989 アトケミ(エピエール)
・オランダ
1999 サーモファス(旧ヘキスト)、フリッシンゲン
・ベトナム
2009 エサコ (ラオカイ)
トピックス
①中国リン、1980サンプル初入手。
1981南京化工公司より取引開始。
1982 8月 南京事件。
②黄燐生産中止
1983:リン化学工業
1986:日本化学工業
1989:カナダA&W
1991:南アフリカ
1993:西ドイツ ヘキスト
1995:フランス アトケミ
2001:イタリア モンテエジソン
2012:オランダ サーモファス
③国の取り決め
1997:アメリカ輸出禁止令
2008:中国輸出税アップ(1989輸出禁止法6品目に入る)
売価4倍にアップ
2017:EUが黄燐をCritical raw material に指定
④日本独自でリンを作らねばならない。
掲載日:2019年6月20日 | 目次:会長の時間(過去)に戻る
リンとの関わり(1)
1968(S.43)私が三国製薬に入社し燐化学工業に出向し始めて黄燐に触れてから私の黄燐との付き合いがスタートし、半世紀が過ぎた。当時は燐化学工業、日本化学工業が、リン鉱石を輸入し電気炉で黄燐を製造していたが、昭和50年半ばに、環境問題、電気料金アップで両社とも製造中止、以来日本にはメーカなくなりすべて輸入に頼らざるを得なくなり、黄燐を求めて私の人生がスタートした。
「リン」は動植物には必須の元素で、生命維持に絶対必要な物質。
日本にもラサ島に唯一リン鉱石が存在し、戦前はリン鉱石を採掘しリンを確保した時期がある。ラサ島は沖縄の400キロ南東の無人島、「鳥の糞」が堆積して出来た島とされている。大阪のラサ工業の私有となっている。リン鉱石は45億年前地球誕生から偏在し、日本列島には存在しない。アメリカはフロリダ半島(ラサ島と同じ鳥の糞)、ロッキイ山脈。中国ヒマラヤ山麓。アフリカ地中海沿岸。オーストラリア。カザフスタン。ベトナム。等に偏在。黄燐はリン鉱石を所持している国で生産されているのが現状。
次回から、私の黄燐を求めての奮闘の歴史を お話しします。
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「リン」との出会い
三國製薬に入社し一度も出社せずに、富山の燐化学工業に出向した時、初めて黄燐を知った。当時、燐化学は黄燐生産メーカで三國は燐化学から黄燐を購入し、塩化リンを生産していた。
黄燐は燐鉱石を電気炉で分解して作るが、燐鉱石は日本には存在しない。黄燐は危険物、毒物、で非常に取り扱いが難しく、事故も多く、負傷した作業員に面談した。空気中で自己発火するため、水中で保管。
黄燐は全てのリン化合物の出発原料で、日本には、天然資源のリン鉱石が存在しない。原料の素は日本に無い、リンを出発原料とする化学品は医薬、農薬、化学製品、自動車、電機、等々すべての産業に必須の化合物。その中一つ、塩化リンを製造することを生涯の仕事に決めたことで、私とリンの係わりが生涯の仕事になった。
塩化リンは取り扱いが難しく、生産プロセスも研究した文献も少なく自分たちが失敗を重ねながら手探りで作り上げた。
原料の黄燐も燐化学が生産を中止してからは黄燐を求めて、世界中を旅することになった。
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本日は國貞会長が公務のために会長の時間を代行させていただきますが、先ず以って筆頭副会長の吉田副会長を差し置いて、若輩の私が担当することをお許しください。
さて先日は9日10日11日と開催されました豊中えびす祭に、國貞会長が商工会議所名誉会頭として長谷川幹事が豊中南RCを代表してお揃いで福男としてご奉仕いただきました。実はこの豊中えびす祭には私も約20年間ご奉仕をさせていただいておりまして、3日間を約35万人の参拝者で、年々増える参拝者で賑わいを高めています。実は私の本年は仕入を担当する部長を拝命しており、平たく言えば 3日間の売上次第では責任が問われるような 立場であります。この豊中えびす祭は昭和26年に初めて催行され、今年は通算で68回目を迎えております。その歴史ある服部天神宮の境内の中でも一際賑々しい本年のえびす祭の結果と言えば、なんと史上最高の初穂料(売上高)を記録しました。ご紹介させていただきますと同じ豊中南RC会員で西原先輩もえびす講のメンバーでご一緒していますが、全9箇所ある売場の中でも毎年にトップセールスを叩きだすスーパーマンでして、今回も単一売場でも史上最高の成績を納められました。裏話ですがこのセールスレコードをどこまで続けられるのか、全講員が固唾を飲んで見守っている状況なんです(笑)
さて、各地のえびす祭も西宮えびすの総本山をはじめ、大阪市内の有名なえびす祭が同日に開催されています。私も前述で奉仕歴を述べましたが、氏子など地域活動の担い手不足や社会人口減少や様々な現実問題から急速な変化を必要とする時代に入っていると実感します。 一見、神社関係はその時代に変わらないゆっくりとしたイメージですが、例えば大阪市内では有名神社の街宣車が地域を越えて活発に走り回り、各社福娘のコミュニティはより深く強固に繋ぎ合わされて、それぞれの神社が現状規模の維持継続を懸けた本気のアクションを感じます。そんな中で私の務める豊中えびすに於きましては大阪北部では最大規模を誇る中で、他社には負けない今後の新たな取組みをえびす講の若手チームが一丸となって急ピッチに進めている状況であります。今後も商売繁盛の神様を支える氏子として、なにより自分の企業としての仕事に勤しみ、そして今後のロータリー活動にも繋げて頑張っていきたいと思います。
以上です、拙い時間にご清聴をありがとうございました。
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新年あけましておめでとうございます。今年が皆さんにとり、幸多い年となりますよう祈念いたします。昨年は大変お世話になりました。今年は皆さん一丸となり、50周年記念事業を成功させましょう。今日は初例会で夜の例会としました。皆さん楽しい食事をしながら今年 一年のスタートとしましょう。
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失敗は成功の基
岡山、水島コンビナートに土地獲得、プラント建設等すべて私が総責任者として任せられていた。4,5年かけて塩化リンプラント建設、1991(H.3)完成、生産スタート。スタートして1週間、プラントが大揺れ、反応釜、爆発寸前となりストップ。原因究明、対策、再スタートに1年を要した。
土地は三菱化成から購入、ユーティリティー、一部原料を三菱から供給されていたこともあり、当時の三菱社長の声掛けにより三菱水島工場挙げて異常反応物質の分析を応援頂いた。
三菱の技術屋も「リン」は素人でよくわからないが、異常反応物質の構造はこのような形ではないかと提示していただいた。
私は、すがる思いで数日その構造を眺めていたとき、ふっと20年前大手製薬メーカからのテーマでリン化合物(TCPP)を合成したとき、提示された方法は、産廃処理が大変で別法を考えて、現在はその方法で製品化している。その別法を完成するまでに、失敗を繰り返したがその失敗の方法を思い出し、本件に使用すると見事に解決した。
この解決がなかったら、弊社は確実に倒産し現在はなかった。
Aという目的に適さなくても、Bにはいかせる。
失敗はない、というのが私の結論です。因みにシリコンバレーの技術者の給料は失敗の数の多い人ほど高い、と聞いたことがある。納得。
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本日は卓話の時間で豊中警察署交通課の 安藤 敬 警部補のお話があります。
臨時総会で,2019~2020年度当クラブ役員の承認をお願いします。
月初で、連絡、報告事項、が多く私の履歴書は次回の例会で話します。
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秘話1.幻の医薬品
私が入社してすぐ、A社の営業部長の紹介でB製薬会社の開発品脳循環薬の骨格製品の研究委託を受けて、C薬大の某教授の特許を紹介され、実験したが反応せず、私の技術力を証明したく発明者の教授と立会い実験を実施した。当然私は自分の研究者としてのレベルをかけての戦いであった。結果は私の勝ち。先生は当時よくあった、特許申請に名前を使われたようで、先生は本件の内容にはタッチしていなかった。以後先生とは亡くなられるまで、年賀の交換は続いた。このまま、大騒ぎのままで終わりたくなく、別の方法を考えて、製品を作ることに成功し、三國初の医薬品として厚生省に申請、夢がかなうかに見えたその時、B製薬会社とD製薬会社が同じ製品で係争が始まり、そこに三國が巻き込まれると会社がつぶれるとの判断で、本件から手を引いたため、幻の医薬品となった。
塩酸メクロフェノキサート「ミクニ」誕生
(昭和44年2月申請、45年7月30日。医薬品製造許可)
技術者として生きるには、自分の技術に対して責任を持つ。
命を懸ける。会社に予算がないときどうしても研究したくて、自分のお金で実験器具を買って実験したこともある。
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履歴書No.6
3,4回生の2年間は有機製造、木本研究室にどっぷり浸かり充実した学生生活を過ごしたが、卒業が近づき就職のタイミングで、お世話になった國貞の叔父、叔母、親戚の目が三國製薬に就職してほしい雰囲気を感じて、気が進まない中で逃げる手はないかと模索し、1年前に大学に修士課程の大学院が出来たのをチャンスと、半年間猛勉強し大学院に入学することが出来た。将来私が卑屈に感じてはいけないと、叔父の提案を断り大学4年間の授業料は両親が苦労して出してくれた。さすがに大学院は突然わたしの我が儘で、親にも無理掛けられないので、奨学資金と家庭教師アルバイトで資金調達の一部とした。修士2年間も木本教授にお世話になった。楽しい研究生活であった。修士終了後の就職先は教授推薦で大手製薬会社に内定していた。卒業近くになり、親戚から、親戚の者がお世話になった会社なので、一人ぐらい恩返ししてほしいと叔父の会社に入るよう懇願、説得され、断りきれなくなり木本先生に事情説明したところ、今までで先生の推薦を断ったのはお前だけだと言われたが、気持ちよく了解して頂き、頑張るよう励まされた。4月から三國製薬の社員になったが、一度も会社に顔を出すことなく、5月連休明けから、富山の燐化学工業に出向した。燐化学工業は黄燐の製造メーカで半年お世話になった。黄燐の製造を体験し、「リン」を知ることになった。
三國製薬は昭和21年、神崎川河川敷に戦前あった製紙会社の跡で薬品製造を初めた。私が入社した昭和43年頃は、研究室人員は、研究部長の下で若い研究スタッフが1名、私を含めて3名、研究からスタート。若い研究者は私より1歳若く、九州の高校を卒業後、集団就職で三國製薬に就職。身体が不自由で家庭の事情(母子家庭、兄弟が多く、長男)で大学に行けなかった。頭は良く、彼の境遇を自分に比べ、これも縁と考えて、彼のために私の知識をすべて教えると約束し、町工場に身を置いた縁もかんがみ、10年間私は地下に潜ると宣言し、今までの友達、環境から身を引いて、彼に寄り添い、中小企業の中に入って行った。当時は30人足らずの社員であったが会社のそばの社宅に住み、皆と一緒に生活を共にした。
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履歴書No.5
私の叔母(母の妹)の亭主(國貞忠夫)が大阪で三國製薬工業を立ち上げていた。田舎者の私は國貞の家(宝塚)に下宿し、京都山科(京都薬科大学)に通学した。朝5時に家を出、阪急宝塚線で大阪に出て、青森行き普通蒸気機関車で山科まで通った。入学時、先輩たちが各クラブ入部勧誘をしていたが、「能楽部」が目に止まり、私は田舎者百姓の経験から、薬学部で農業用の新薬を研究する農学と思い込みし、入部したのが伝統芸能「能」を知ることになった。クラブ創設して7,8年であったがここ2,3年新入部員が無く、今年入部者が無いと、クラブは消滅するとのことで、4回生の部長さんが必死に私の入部勧誘し、毎日説得された。之も自分の無知から起こったことだし、先輩の熱心さに根負けして入部した。私は芸を演じるよりも、クラブ運営にかかわった。クラブ予算も人数で決まるため、部員獲得に奔走し、文化倶楽部で2位の人数までになり、初めての自演能を出せるところまでに成長した。関西学生能楽連盟にも所属し交友することもできた。各教授が研究室を持っていて、3回生から許されたものが研究の手伝いをしていたが、私は一番人気の木本教授有機合成室に入ることが出来た。お蔭で楽しい実験研究、学生生活が出来た。
下宿が許されたのは、3回生になり毎日研究実習が 夜 遅くまで行うようになってから。京都は学生の街と言われ、月に一度皆で小遣いを出し合って、繁華街のなじみの店にご飯を食べに行った。大変なご馳走に預かったが、お客さんの食べ残しをきれいに盛り付け直していたようだ。店にとっても我々は役に立っていたようだ。コンパのとき、お酒は2級酒に研究室の局法アルコールを少々添加し、特級酒にして楽しんだ。後刻、恩師木本先生からは君たち科学で生きる者は、化学の勉強の2倍の時間、文化の勉強をするよう言われた。(後刻、黄燐の中国取引で下手な能が役立つとは)大学生活の思い出づくりとして友人と2人で夏休み北海道旅行を計画した。旅費はアルバイトで作り、宿泊は旅館でなく駅で野宿、札幌駅で時間待ちしていた時、有名な占い師が営業していたが、私たちに目を向け、呼び止められて手相を見てもらった。お金はないので支払なし。その時の師の発言仕事運、結婚運、健康運等が2人の人生にぴったり言い当てていたことに後日驚いた。
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